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技術と文化

技術のあり方について、気にかかっていることがある。

たとえば、
複製技術と著作権の関係。




いまや、パーソナルなコンピュータによって
誰でもデジタルデータを加工して複製することができる。
音楽なり映像なりテキストデータなり、図面もコピーできる。

これまでだったら、複製の技術精度が良くなかったので
複製技術であるテープレコーダーなどは、
著作権という文化(といってよいのかわからないが)の側からは放置されてきた。

でもいまやCDクオリティの音源であれば、
完全に複製できる技術と、それが実装された製品を合法的に入手する事ができる。

それにたいして、簡単にコピーできてしまうと、制作者側はビジネスが成立しないので
「著作権」というルールを設けて
制作者を保護しようという動きが、当然のように出てくる。

合法的に入手可能な技術と
それを使う側への抑制のルールが設定される。

そこに技術がフルに発揮できる能力と
それを抑制せざるを得ないビジネスの枠組みの矛盾を感じるのだ。
かつては技術の進化、拡張性こそが
利益の源泉だったはずだ。
コピーできる能力、精度の向上が新しい製品を生み出し、
その能力に対する欲望をかき立てることでさらなる消費を促してきた。
技術が消費のエンジンだったはずだ。

しかしいまや、技術の最先端(それは僕らが普段接しうる先端であって、真の最先端はもっと先をいっているはず)は、ビジネスの先をいってしまっている。
そのために、ある技術を抑制する為の技術(たとえば複製を不可能にするコード)などが
開発されている。

僕もどちらかといえば制作者側の人間なので
図面がコピーされて知らないところで同じ建物が建っていたりすることが起こったら
微妙な感覚を覚えると思うが
幸い(なのかどうかわからないけれど)、建築の場合は
それが立つ敷地条件が一致することはまず(いまのところ)あり得ないので
不利益を被ることは(いまのところ)ない。
バックミンスターフラーは、コピーされることを旨として設計すらしていた。

でも音楽関係の人たちは深刻だろう。
レコードとCDが扱える音域の違い(CDの方が狭い帯域)、
ライブと録音複製音源の違い、は当然のように消えてなくなることはない。
一次情報はその現場に行かないと手に入らない。
そのことは(いまのところ)不動の事実だと思う。
しかし、そこまで望まない消費者はコピーでも圧縮された音源でも
従来と同じ満足度を感じてしまう。
ファイル圧縮技術は、音楽、画像ともに、ある意味「ごまかし技術」なのだが
人間の知覚はいとも簡単に技術によってごまかされてしまう。
(というより、ごまかされるギリギリのところを狙って、圧縮技術をチューンアップするのだ)
だから、iPodもあれほど流布するのだし、jpg画像が印刷にも使われる。

そういえば、先日本屋で立ち読みした(失礼)
GAの写真に
デジタル特有のシャギーが入っていたように見えた時は
かなり衝撃的だった。
GAといえば、二川幸男さんという建築写真の大家が出版している
建築写真には最高クラスのこだわりを持っている雑誌のはずだ。

GAがデジタルカメラを使い始めたのだろうか。
それとも写真自体はポジフィルムであっても、
印刷過程のデジタル工程が誌面に影響してしまったのだろうか。
デジタル技術を使うことに全く異存はないけれど、
GAは、シャギーが出る誌面を許容したのだろうか。
それとも、これは完全な僕の目がおかしくて勘違いなのだろうか。

(再び)そういえば、
大学の非常勤をしている関係で、一年に2度ほどお会いする
名編集者Nさんのことを思い出した。
Nさんは(当然)銀塩フィルムの時代に雑誌を作っていたので
これまでずっと銀塩フィルム(それもリバーサルフィルム)しか信じてこなかったのだけれど
最近は現像したポジフィルムを版下にする間の
スキャン工程の人間(およびそこに蓄積しうる技術)がいなくなっているのだという。
それは、現実に出版をする際に支障が出るほど、いないのだという。
だからNさんはあきらめの境地で、RAWデータを書き出し可能なデジタルカメラに
なくなく乗り換えたのだという。
RAWから表示可能なデータに書き出す際のプロセスが
かつての銀塩フィルムの現像にあたり、
そのプロセスを自らがコントロールできることを唯一のよりどころとして。

僕もかつて、雑誌の編集ということに少なからず関わった時期があった。
その時に、痛烈に感じたのが、
印画紙に焼いた写真と、印刷(つまり複製)された写真との
質感:クオリアの、圧倒的な違いだった。
もっと言えば、インタビューしたその場で交わされた会話<dialogue>と
それをテープ(そのころはMDで録音していたが)起こしした後のテキストL<text>データと
それがさらに雑誌というページに印刷された時の状態<media>とは
それぞれに異なる質感:クオリアを発現させることだった。

いまも昔も、良質な編集者、メディア関係者に共通の
達観したようなこの世の現実感と少しだけ浮遊した雰囲気があるとすれば
何を伝えるか、それを選択しうる立場にいるという権限主義的な選択権に
発しているのではない。
おそらくそれは、伝達すべきことと、それに実際に接しうる機会の多さと
伝えるべき立場にいながら、それを伝え得ないことの無念さ、に
その多くの源をもっているのではないかと思うのだ。

クオリアを提唱する茂木健一郎さん
自らの大学での講義を音声データで公開する。
大学という、かつて閉鎖的な特権的な学術の学び舎であった
その最も根幹をなす講義の音声が、世界に向けて複製されていく。
茂木さんはおそらく、それでも無くならないクオリアがその場にあると確信しているからこそ
複製を許すのだ。

音は環境を余すところなく(ある意味映像よりも)移しとるメディアである。
それは自分でマイクを持ち、いま自分がいるところの音を、環境を記録してみるとよくわかる。
音は、無指向性でフラットに環境を移しとる。
それでも、その場にいないと伝わらない、メディアによって伝え得ない何ものかがある。

僕らは、無邪気に技術の拡張性を堪能するような時代を終えてしまったのではないか。
自分の能力の最大限を発揮しても、それ以上の広さを世界が持っていた時代、
つまり、人類の青年期は、知らず知らずのうちに終わってしまったのではないか。

ボールをと遠くに飛ばせば良いのではないことがある。
テニスというスポーツがそうだ。
ラケットとテニスボールにとっては、
テニスコートの枠など簡単に超える飛翔力を得ることは簡単だ。
でもそれではテニスというゲームは成立しない。
コートのなかの、意図するところへボールを運ぶこと
ボール半分のコントロールができること
相手との位置関係、相手がどのような回転をボールに与えているかどうか、
次にどのように動きそうか、
いま、自分は何セット目の何ゲーム目を戦っているか、
これらの相対的な関係把握。

それこそが、相対的に狭くなった地球で生きる
これからの僕らに必要なスキルかもしれない。


[ben]
by ben_matsuno | 2006-05-27 21:48 | 考えたこと


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